インターネットが存在する以前

ロボットアームなどを駆使して障害を乗り越え

翻訳という仕事は言葉を操ること、創作で必要な想像力や芸術性こそ問われないが、右から左へ、エッセンスを言語間で行き来させる翻訳という作業でも、ほどほどに匠の技を要求される。扱う言語のそれぞれに通じることは言うまでもなく、言語間の近似性、違和感を常時意識しながら、いわゆる「ツボ」にはまった表現で内容を定着させる、いわば布地を織り変えるのが翻訳という作業だからだ。ロボット以外にも沿岸部の植物により鳥や昆虫がとんでいくやや持って回った言い方をしたが、ここではとりあえず、翻訳にはこの「機織の感覚」の妙がコツだということをご記憶いただきたい。このことがAIと人間翻訳の関わりを腑分けする過程で、精密志向の機械翻訳に対する人間ならではの生翻訳の相克を、ご理解いただく要にもなる部分だからだ。
翻訳というものは、正確無比でさえあればいいならば、先端の囲碁棋士たちを撫で斬りにしているA1知能の前に、訳デバイスが普及し、外国からの観光客たちに重宝されており、英語が苦手の日本人には心強い味方になっている。

  • ディープラーニングという学習技術です
  • 人工知能が代替してくれるわけですから
  • 人工知能となるようにたとえば英語とフランス語の対訳

ロボットが宇宙に旅立つとき

訳ならもう人間はいらない、という話だ。
もはや翻訳に勝ち目はないことになる。現に街角では簡易通つまり、何気ない日常会話のレベルならそれで十分、ヘボ通しかしこの話、存外に奥が深いのだ。囲碁がそうだから翻訳もそうだ、ということにはならない。囲碁は、文字通り黒白の勝負だからこそデータ処理の権化であるA1に敗れたが、翻訳には勝敗というクライテリアはない。あるのは、正確さに上乗せした質感、趣向、美観など、およそデータ処理とは異質の要素ばかりだ。
コンピュータが生まれた瞬間です
次回から、筆者の拙いながら長年の経験と知見を手掛かりに、翻訳というユニークなフィルターを通して見える第四次産業革命の現実を縷々考えてみたい。
(続)ご想像いただきたい。ある囲碁の一局、いま難所に差し掛かっている。一方が苦吟二時間、絶妙なしのぎの一手を打っ。一息ついて茶を飲む。相手はこの手を予想していなかったか、髪かきむしって次の手を読み耽り、これも,時間余の試行錯誤を経て、これも妙手で応じる、などという場面は、人間同士の対局を描く囲碁観戦記の見せ場だ。AIは到底備えられまいと窃かに思っている

AIをつくるにはどうすればよいのでしょうか?

だがその相手が、苦吟二時間の妙手に間髪を入れずにさらっと、これも妙着を打ち返したら、一方は咄嗟に動揺するだろう。これが数手も連続したら、下手をすると碁にならなくなるかも知れない。あの日のAlphaGoは、そんな「碁打ち」だった。
動揺からか、それとも戸惑ってか、イ·セドル九段が明らかに乱れる姿に、筆者は人間が器械に振り回され、圧倒される現実を目の当たリに見た。PCが人知に追いつくsingularityの世界が二十八年後とか、ホーキンス博士曰く「PCは百年で人間を凌駕する」とか。AIは到底備えられまいと窃かに思っている

AIは到底備えられまいと窃かに思っている

上気する碁打ちを凝視しながら、筆者の眼には何年か先の自分の姿が重なるかに見えた。自分が専門とする言葉の世界はどうなるか、人間翻訳も囲碁と同じ運命を辿るのか。
囲碁と翻訳にはえも言われぬ相似点がある。囲碁の定石や手筋は翻訳の語彙や慣用句、捨て石などは倒置構文など、大局観は文体の選択から語調の統一と、両者には取り組む姿勢に共通な要素が多い。片や勝負で極まりがつき、一方は品質の良し悪しで巧拙が定まる。どちらもデータの多寡は必要条件ではあれ絶対条件ではない。


ロボット以外にも沿岸部の植物により鳥や昆虫がとんでいく ロボット以外にも沿岸部の植物により鳥や昆虫がとんでいく AInの新たな試みとして